MF26 山内 日向汰
チームの象徴となるような選手に
監督から「試合を決めてこい」と送り出されました
- プロ入りして半年が経ちましたが、もう慣れましたか?
- 今年の1月からは怒涛の日々でしたね。キャンプが終わってすぐACLが開幕して、そこからすぐにJリーグが開幕して…その頃は本当にドタバタしてて。最初は慣れないことも多かったんですけど、生活のリズムにも慣れて試合にも少しずつ出られるようになって、今はようやく落ち着いてきたなって感じです。
- 怒涛の日々真っただ中、Jリーグ開幕前のFUJIFILM SUPER CUPでいきなりスタメン起用されましたね。
- そんなこともありましたね。すごく昔の話みたいに感じます(笑)。チームは連戦だったので、チャンスはあるかなと思っていつも準備はしていたし、冷静に試合に入れました。
- Jリーグデビュー戦の第5節・FC東京戦(1点リードの82分に投入され山田新選手のゴールをアシスト)のほうがよく覚えてますか?
- そうですね。満員の等々力の多摩川クラシコでリーグデビューできたことのほうが印象深いです。鬼木監督からは「試合を決めてこい」と言われてピッチに送り出されました。
- アシストして、本当に試合を決める働き。最高のJリーグデビュー戦になりましたね。
- 自分が点を獲れればもっとよかったんですけど、及第点かな、と。でも結果を出し続けないとチャンスはこなくなると分かっているので、そこはよりこだわっていきたいと思っています。
- 山内選手はフロンターレのアカデミー育ちですが、大学経由でのプロ入りでした。ユースからトップに上がれなかった時はどんな思いだったんでしょう?
- そんなに悔しい思いはなかったです。ケガもあってトップに上がれる可能性がほとんどないことは分かっていたし、大学に入ってそこからプロになるという思いのほうが強くて。
- 実際は桐蔭横浜大学での活躍で2年生の時にはもう他のJクラブからオファーがきたものの、それを断ってフロンターレのオファーを待った、という話は有名ですね。
- はい。他のクラブからお話をいただいた時に大学の監督経由で向島さん(フロンターレ強化部)とお話させてもらってたんですけど、その時点でフロンターレからのオファーはなくて。でも大学4年間のなかでフロンターレからオファーがもらえるなら、フロンターレでやりたいという思いがありました。
- 結局4年間フロンターレのオファーがなかったらどうしよう?とか思いませんでした?
- 今考えてみたら焦ってもおかしくない状況ですよね。でもその時は、より真摯にサッカーに向き合って、成長してプロの世界にいこうとだけ考えてました。フロンターレは子どもの頃からお世話になっているクラブだし、等々力でプレーがしたくて。なによりフロンターレに加入できれば、よりレベルの高い環境に身を置くことで自分自身が成長できると思って、オファーを待つことにしました。
- そんな思いで加入したクラブ。ここからどんな存在になっていきたいですか?
- チームの象徴となるような選手になりたいです。そのためには試合に出続けて、勝利に貢献していきたい。タイトル獲得やいろんな場面でフロンターレの歴史に名を刻んでいければ。そして日本を代表する選手になって、世界でも活躍できる選手になれればと思っています。
3月の多摩川クラシコ。Jリーグデビューの山内選手のアシストで山田選手のゴールというフロンターレの新時代を感じさせるシーンは、多くのサポーターの脳裏に焼き付いていると思います。その山内選手と山田選手の関係は、同じフロンターレのアカデミー出身で大学も同じ。年齢は山田選手がひとつ上ですが、山内選手いわく「寮の部屋にも勝手に入ってくるし、休みの日もほとんど一緒にいる」という親友のような関係だそう。
多摩川クラシコで同時投入されるときも、言葉はなかったけど「“トントン”はあった」とのこと。“トントン”の意味を聞くと、肩かどこかを叩きあったそうで意味は特にないそう。でも長くやってきた2人はそれだけで通じ合うものがあったんでしょうね。「2人でユース出身の若い自分たちの世代が、どんどん上を突き上げていけるようにしたいねって話しています」と頼もしいコメント。アカデミー出身選手の活躍はやはり特別です。そして山内選手は間違いなく、これからのフロンターレを引っ張っていく存在。注目してください!